終焉の記 砂のつぶやき(16)

第五章 考察(2)
肉体が消滅するとき発せられる目に見えない「氣」が、特異点を突き抜け別次元に辿り着くのではなかろうか。
これは、単なるわたしの思い込み、仮説にすぎません。そんなことは考えられもしない、と一笑に付す方も居られるでしょうが、いろんな仮説を立ててみるのも不明な問題を追及する一つの方法です。
別次元の世界が、どのようなものか、そこにたどり着いた氣は何をしているのか、愛とか美とか、怒り・悲しみを感じるのか、そのようなことは分かりませんが、不幸であったこの世での悲しみ、戦争で断ち切られた悔しい思いを伝えたいのではないでしょうか。
だから微かな波動を時に応じてこの「実」の世界に送っているのでしょう。
しかし、この微かなサインはあまりにも微弱で通常の状態ではなかなかキャッチすることが出来ない。真摯に自分の心の目を見開き、心の耳をすますことでそのサインをキャッチすることが出来る。
わたしの経験したある不思議なことは、以上のように考えると納得できそうです

また、別次元から現世界に伝わり易い場所があるように思われます。お宮やお寺とかお墓などはその一つで、そこには、長い、長い年月に人の祈りの気がたまっているので別次元のあの世からこの世に突破しやすい箇所である、と考えるのはこじつけでしょうか。
山野を跋渉していると、ときおり、おや、この場所は何かちょっと違う感じがする、と思うことがあります。
わたしの経験では、あるとき山岳地帯を車で走っていて、小用をたそうと、車を停めた道端の一角が何となく妙な感じがする。それは、普通に言われる「霊気」のようなものかも知れませんが、それを感じて、そばの藪の中に入ってみると、ここは捕らえた武士を処刑したところだ、と書かれた古びた立て札が建ててありました。
また、昔、奈良のどこかの大きなお寺でしたが、その広い境内の隅に石で囲われた周囲とは異なった感じの一画があり、ここは座禅修行をした箇所であるという掲示がありました。そこに近寄りますと何となくびりびりとしたものを感じます。周辺と異なりそこだけが何か違う雰囲気なのです。それで、わたしもしばらく座ってみたことがありました。
また、那須の田舎の部落を散策中、小高い丘に上がると大きな樹木に囲われた小さな祠があって、その一帯に不思議な「気」を感じるのです。ここは、昔、何か事件があったのではなかろうかと、その場所を所有するお宅をわざわざ訪ねて聞いてみたことがあります。古い時代のことは分からない、というご返事で引き下がったのですが「氣」がこもっているような場所があるようです。
わたしの住む宇都宮市の郊外に、ダムの周辺を整地してキャンプ場を設けたり遊歩道を設備した公園があります。一周するのに約一時間を要して格好のウオーキング場なのですが、何となく全体的に暗い感じで、中でもダムの奥にあるキャンプ場とか、ダムの隅の一部は、変わった「氣」が漂って居るように感じていました。
あるとき、散歩の途中行き逢った中年の男性が
「自分は、オーラを感じることが出来るが、この公園のあちこちには悪霊が漂っている。あの場所など特にそうで(とダムの隅の茂みを指差し)何人も首吊り自殺があったところだ」
と、話してくれたことがありました。
わたしは、自分が霊能者だ、などとは思っても居ませんが、何だか共通するところがあるな、とそのとき感じました。

さて、話は少しそれますが、俳優、映画監督、霊界研究者、として有名な丹波哲郎は、二〇〇六年九月二十四日、肺炎のため東京都内の病院で死去。八十四歳でした。彼のことについて、わたしはテレビに出たのを見た程度であまり詳しいことは知りませんが、霊界を信じ、霊界の具体的な事象まで話していたのをみたことがあります。彼は今、あの世で何をしているのでしょう。どのようなメッセージをこの世に向けて発信しているのか知りたいものです。そのうち彼の著書など読んでみたいと思っています。

また、科学者の方で霊魂とかそれに類した不思議なものの存在について説く人がいます。この本の九頁に、『植物さんとの共同研究』を出版した理学博士三上晃氏と樹医山野忠彦氏のことを書きましたが、その他に、工学博士深野一幸と言う方は「超能力現象や霊的現象は現実に起こっているが、現代科学はその原理を説明できない。現代科学は遅れた科学である」として、ビッグバンは無かった、とか太陽は熱い星ではなく地球程度の温度の星である、などと驚くような研究成果を『来るべき宇宙文明の真相』という著書の中で述べておられます。

わたしは、これらの科学者たちの著書に行き当たるまで、科学の徒は、厳密な実験結果の上に立って推論を積み重ねて行くのだから霊界や霊魂などは否定するはずだ、とばかり思っていましたので不思議な感じがしました。
一時期、わたしのかかりつけであったドクターも、受診すると霊的な話をされるので「先生は、科学の勉強をされてこられたのにそのようなことを信じられるのですか」と尋ねましたら、診断はそっちのけで熱心にそちらの話をされていました。

因みに、キリスト教では「死後に天国にあって静かに安らう霊魂」を認めています。
百年前英国でベストセラーになったA.・ファーニスという人の『スピリットランド』という本などは死後の世界を詳細に記述しています。

仏教では、霊魂の存在は認めていません。お化けとか悪霊・守護礼・水子の霊、その他いろいろの霊は、人間の心の問題であってそのようなものを思い煩う必要は無い、というのが仏教の立場のようです。
われわれは、墓場にお化けは付き物のように思うし、死んだ人の霊を慰めるのはお寺さんでお経をあげてもらうのが当然のように思っていますから、仏教は当然、霊魂は存在する、という基盤の上に立って成り立っているものとばかり思っていましたが、仏教解説の本などに目を通してみるとそれは否定されています。
坊さんに聞いても「霊なんかありませんよ」の答えが返ってきます。

勿論、科学者にしても、宗教家にしても全部が全部そうであるというわけではなく、それぞれ、そのように考える方も居られるということでしょうが、科学者に霊魂の存在を確信する方が居られ、宗教家が否定するのはわたしにとって、それまでの常識がひっくり返って大変興味深い発見でした。

わたしはこれまでに不思議なことをいくつか経験しましたが、霊界が存在し、そこで霊たちはこの現実社会と同じように暮らしているとか、喜怒哀楽を感じると言うようなことは分かりません。正直のところそんな話は眉唾じゃないか、という思いもありますが、しかし、何も無い、一切空だ、とする否定的な仏教の考え方も疑問です。
不思議なもの「Ⅹ」が存在することを確信します。