終焉の記 砂のつぶやき(13)

第四章 不思議な出来事(5) 
その4、その他
1、沖縄の蝶
大東亜戦争で唯一国内戦となり、数多の無辜の住民を巻き添えにした沖縄の惨状は、後世になって記録をひもとくたびに胸が痛みます。
家内(澄子)の三兄は、この地で散華されましたので、平成八年十二月十九日、北海道札幌にいる澄子の姉と三人で慰霊に訪れました。
戦跡を訪ねる旅行会社主催二泊三日の短いツアーでした。到着の翌日は、ツアーの一行と別行動でわたしら三人は、亡兄の消息が判ればいいが、と沖縄県平和促進課を訪れました。
(写真は、亡弟の碑に参る姉)
亡兄が沖縄移駐の前に満州から送ってきた一枚の葉書を提示したところ、南部戦跡にある「平和祈念公園」の「平和の礎(いしじ)」に刻まれてある「岩崎富士夫」の名前は、苦も無く判明しました。
沖縄県は数万の戦死者の調査が行き届いていて戦死二十数万人の氏名を刻んだ子供の背の高さほどの「平和の礎」という刻銘碑が公園の中に見渡す限りきっちりと並んでいます。
早速、平和祈念公園に行き「平和の礎(いしじ)」の中から、北海道出身の亡兄の名はすぐに見つかり、お線香をたむけお参りをすることができました。
その翌日、ツアーの一行と共に摩文仁の丘を訪れました。摩文仁の丘は、最終的に追い詰められた日本軍が二十年六月二十三日早朝四時三十分、第三十二軍、司令官牛島満中将(五十七歳鹿児島出身)、軍参謀長、長勇中将(四十九歳福岡県出身)。作戦主任参謀 八原博道の三氏が、副官のハーモニカで(海ゆかば)を吹く中、日本刀で自決し、組織的な戦闘が終わったところです。
摩文仁の丘は、坂の入り口から丘の上に行く道路の両側に、隙間なく各県の慰霊碑が建立され連なっています。
ガイドさんが、「坂道ですし、時間もあまり無いので足に自信のある方がどうぞ」ということで、澄子や姉は居残る事にしてわたしは、一行に加わって丘の上に向けて歩きだしました。
栃木県の慰霊碑は入り口にあったし、途中には、わたしの郷里佐賀県のも、また北海道のもあります。坂を上って行きますと行き止まりには、石の像がありますが、これは見様によっては司令官と参謀長の自刃の姿に見える、というガイドさんの説明がありました。
(写真は、自刃の形に見える石像)
そこから見下ろす南支那海は、きらきらと浪が太陽を反射し、船の姿も無く茫洋と広がっています。激戦の当時は、この海を埋めた敵艦から絶え間なく砲弾が発射され、空はグラマン戦闘機が飛び交い銃弾の雨を降らせたのでしょう。
この像のあるところから海に向って断崖を十数メートルほど下りた所に洞窟があって、その中で軍司令官以下、自決されたそうです。
洞窟の入り口は、板や木で仕切られて中には入れません。わたしは、じーっと洞窟の奥を見つめたり、明るく広がる海を見ながら往時の状況を偲んだりしていたのですが、ふと気が付くと周辺に人の姿が無い。おや、と思って急な坂を像のところに上がって行き、来た道を見通したが人っ子一人姿が無いのです。わたしの感じとしては壕の入り口から中を覗いていたのはそんなに長い時間ではなかったのです。
―いつの間に、皆さん帰ったのだろう。そういえば、予定の時間も余りないようなことをガイドさんが言っていたな―
とわたしは、うっかり悪い事をしてしまったような感じがして、急ぎ足で戻りかけました。
見通す緩い坂の彼方まで人の姿は全く無く、周辺は静まり返って何となく不思議なムードが漂っている感じです。
その時突然、左のデイゴの茂みの中から、三羽の蝶がひらひらともつれ合いながら現れました。
瞬間、わたしは、「あっ」と、たった今手を合わせてきたばかりの洞窟、自決された将軍たちのことと、佐賀の山奥の寺での、オバーチャンの化身と思う蝶が現れたことが同時に脳裏に浮かび上がりました。
三羽の蝶は、わたしが歩くすぐ左横の高い所を、わたしが進む方向にひらひらと固まりのようにもつれ合いながら飛んでいましたが、間もなく茂みの中に消えました。
十二月末のころです。沖縄はこの時期、蝶が飛ぶのは珍しい事ではないのかもしれませんが、オバーチャンの蝶も同じ初冬の季節でした。
各県の慰霊塔が立ち並ぶ人っ子一人の姿も無い下り坂を、わたしは戦死者と蝶のことを考えながら皆の待つ場所へと急いだのでした。


2、落雷

ある時期、ふとした縁で宇都宮市御幸が原町の公民館で月一回開催されていた読書会に参加していました。会長さんは、阿久津さんと言う方でした。
阿久津さんは、わたしより四歳ほど年上です。色々な病気をされ、胃がんで手術もされているとか、鶴のような痩身で「わたしはいつ死んでも不思議じゃない体です」と言われていました。農業の専門家で若いころは、インドネシヤ、サイパンなどの南の島で指導にあたられていたとか。わたしが一時期やっていた洋菓子の店の名前がインドネシヤの「チレボン」と言う都市の名を使っていたので、「一度、一緒にインドネシヤに行きましょう」とか、わたしとは昔の話題が多く、親しくして頂いていました。
氏は、宇都宮市東北部の白沢町あたりの旧家の出で、現在の御幸が原町には終戦直後居を構えてこの町の草分けだったそうです。色んな事について該博な知識の持ち主で教えていただく事も沢山ありました。
平成十一年六月から二ヶ月ほど、わたしは、北海道を気侭に放浪していたのですが、七月の末、同じ御幸が原町に居住している家内の姪から阿久津氏急逝の携帯電話連絡が入りました。その朝、普通に畑仕事に出て倒れられそのままだったとのことでした。
葬儀には出席不可能で、やむなく弔電を発信しただけで旅を続け、半月後、帰宅してお参りに行きました。その日は八月の暑い日でしたが、家を出て車を走らせているうちに突然夕立模様の天候となり、阿久津氏の居宅に車を入れるとき沛然とした豪雨が襲ってきたのです。
急いで、阿久津さん宅の駐車場に車を入れ、襲ってきた雨の中、ドアを開けた瞬間、キラッと光ったと思ったら「バリバリ、ダーン」と天地に轟く雷鳴です。
すぐ傍の電柱か、避雷針か、分からなかったけど落雷したのです。しかも、たった一発だけで後は、滝のような雨でした。
わたしは、そばの家内と顔を見合わせました。
阿久津さんのお宅の宗教は神式でした。神式では、どのようにお参りするのか戸惑いがありましたが、弔意を示すのだからお経を上げても良いだろう、わたしは浄土真宗の寺の出だから、と短いお経を上げた後、奥様から、亡くなられたご様子など伺いました。
お宅の門口で車から降りたときのたった一発だけの落雷、あれは、偶然でしょうか、こじつけかも知れないが阿久津さんからのサインではなかったのか、と考えるのです。