第六章 結び

さて、わたしが八十数年の人生で感じた不思議なもの「Ⅹ」について長々と書いてきました。
宇宙の中でも生物が存在しているという極めて稀な星であるこの地球という天体が生まれたのは、四十五億年前ぐらいのことであろうと推定されています。人類の誕生は百七十万年前。チンパンジーから枝分かれした人類の先祖が、百五十万年前の原人という区別のころに他の動物と異なって火を操ることを発見しました。それから、旧人と呼ばれるネアンデルタール人クロマニヨン人などの時代を経て二万年ほど前のホモサピエンスといわれる我々の直接の先祖の時代が始まります。そして、他の動物が持たない理性、知性、感性を育てて独自の道を歩み続け現代の人類に到達しました。
有史以来の現代人は、人類特有の知性で科学を発達させ、十八世紀産業革命による蒸気機関の発明から第一次世界大戦第二次世界大戦を経て戦後の科学文明は二次曲線状に急速に発達しています。
音速を超えるジェット旅客機は多数の人間を短時間に地球の各所に移動させることを可能にし、地球の距離を短縮しました。ITの発達で情報は、瞬間に世界を駆け巡ります。
十九世紀の終わりごろ、自動車の父と言われるダイムラーとベンツが実用的な自動車を発明して以来、まだ百年とちょっとの歴史ですが自動車は人類が発明したものの中ですべての面で最も有効に活用される道具であったようです。
東南アジアの発展途上国といわれる国々を回ってみますと都市は排気ガスを撒き散らす各種旧式自動車で埋まり、空には科学の極致といわれる飛行機やヘリコプターが飛び交っています。
後進の発展途上国でさえこのような状態であるということは、大量消費する先進国などを含めた地球上すべての国で四六時中、自動車、航空機は大量のガソリンを消費しながら走り回り、飛び回っているということでしょう。
宇宙衛星から肉眼で地表をみることができれば、地球の表面は、黴のように車と人間が埋まってそれがうごめいているように見えるのではないでしょうか。
大量の石油消費は、大量の二酸化炭素の発生を増やし、地球温暖化を促進します。地球温暖化は、海面の上昇を来たし人間の住む地域が減少し、また気候の変動で穀物が取れなくなります。
限り有る地球資源の石油は、そのうち取りつくしてしまうのではないかと心配されるのですが、専門家は、石油が無くなる前に温暖化の影響の危険から石油が使えなくなるだろう、と予想しているようです。
温暖化に限らず、工場廃棄物、生活廃棄物などが文明の進度に正比例して増大し、地球の汚染は急速に進んでいます。
また、人間は原子爆弾というとてつもない破壊兵器を発明しました。そして現在、北朝鮮やイラン・イラクなど「ならずもの国家」といわれる国が連携し合ってその破壊力を手に入れようとしています。
今から四千年前、中東のチグリス、ユーフラテス河沿いに人類最古のメソボタミア文明が栄えました。その地が現在のイラクです。
西暦二〇〇七年の現在、内乱、テロで国家崩壊間際のイラクが、常識の通用しない狂犬のような北朝鮮と提携し、原子爆弾を手に入れれば人類最終戦争への口火を切るのではないかという予感もあります。
人類文明発祥の中東の地が人類滅亡の拠点となる、とすれば何か因縁めいたものを感じます。
恐竜は、科学文明を持たなかったお陰で一億五千万年もの、長い長い歴史を生きて巨大な生物となり中世代の地球表面を我が物顔に跋扈していましたが、あるとき、突然の天変地異で消滅しました。
四十五億年の地球の歴史の中に人類出現以前に科学文明を持った生物はいないのです。恐竜の次に地球上に姿を現した人類は、知性を授かり科学文明を進化させ地球を支配しましたが、天変地異どころか自らの手で僅か二百万年の足跡を地球上に刻んで、あっという間に消え去るのではないでしょうか。

われわれは、その発達の頂点に近い時代であろうと思われる二十一世紀を生きています。
わたしは、日本人として戦前に生まれ、敗戦の日々を経験し、戦後の急激な科学文明の発達を具に目にしながら生活してきました。
仮に、縄文時代とか、うんと下って江戸時代にでも生まれていたとすれば、同じ長さの人生を生きたとしても、変化の少ない人生であっただろうと思われます。
激動の時代、そしておそらく人類終焉も間近の二十一世紀を、砂粒の一つとして八十年も地球上に存続させていただいたことに何という幸せであったことよ、と深く感謝いたしております。
わたくし、いよいよ、この現世のベルトコンベヤーから脱落して特異点を越え、本来所属していた別次元の母体に戻ることになりますがそこで地球に微弱な信号を発信する何か不思議な力「Ⅹ」とお会いできるのではないか、そして、わたしもそこからできる事なら現世に向けて信号を送りたい、そのような期待と決意を抱いてこの世とお別れしたいと思います。
皆様に大変ご迷惑をかけ、また大変お世話になったことを深く感謝いたします。
わたしが残す言葉は、「貴重な一日一日を悔いのないよう充実して過ごされますように」と言うことであります。

老婆心ながら一言付け加えさせていただきますと、
充実した一日とはどのようなことでしょうか。
充実の感じ方は人それぞれだと思いますが、物の見方の深浅ということもその手段の一つと思います。
深く物事を見つめた人の人生と、あまり物事を深く見つめることの出来なかった人の人生は同じ年限を生きたとしても大きな隔たりがあると思います。
この世に短い期間しか存在できなかった人でも深く物事を見つめて充実した人生を送れば、皮相な面だけで長い期間を過ごした人よりも価値のある人生であったといえるでしょう。
物事を深く見つめることの出来る知恵を磨くということが、この世で生きていく上で最も重要なことではなかったか、と人生のたそがれを迎えて痛感するのです。
美しい景色を見ても、野に咲く可憐な花を見ても何も感じない人もいます。美しさの中にも単に表面だけの美しさを感じる人、美しさを深く掘り下げて意識できる人、深さの程度にも差があるようです。
花に限らず絵画・彫刻、音楽・舞踊など芸術や、文学など、どの世界でも同じことが言えるのではないでしょうか。
わたしは、残された日々が少ない老境に達したころ、ああ、あれを学んでおきたかった、これをやっておけばよかったのに、などと、改めて後悔することばかりです。
生涯を通じて己を磨くようなものを選別することが大事でしょう。若いころに、それらを見出して自分を磨く毎日こそが充実した日々であろうと思うのです
なすことも無く呆然と日を送ることは最も忌むべきことではないでしょうか。
おしまいになって余計なおしゃべりをしました。

では、皆様お世話になりました。一足お先にまいります。さようなら。

終焉の記 砂のつぶやき(16)

第五章 考察(2)
肉体が消滅するとき発せられる目に見えない「氣」が、特異点を突き抜け別次元に辿り着くのではなかろうか。
これは、単なるわたしの思い込み、仮説にすぎません。そんなことは考えられもしない、と一笑に付す方も居られるでしょうが、いろんな仮説を立ててみるのも不明な問題を追及する一つの方法です。
別次元の世界が、どのようなものか、そこにたどり着いた氣は何をしているのか、愛とか美とか、怒り・悲しみを感じるのか、そのようなことは分かりませんが、不幸であったこの世での悲しみ、戦争で断ち切られた悔しい思いを伝えたいのではないでしょうか。
だから微かな波動を時に応じてこの「実」の世界に送っているのでしょう。
しかし、この微かなサインはあまりにも微弱で通常の状態ではなかなかキャッチすることが出来ない。真摯に自分の心の目を見開き、心の耳をすますことでそのサインをキャッチすることが出来る。
わたしの経験したある不思議なことは、以上のように考えると納得できそうです

また、別次元から現世界に伝わり易い場所があるように思われます。お宮やお寺とかお墓などはその一つで、そこには、長い、長い年月に人の祈りの気がたまっているので別次元のあの世からこの世に突破しやすい箇所である、と考えるのはこじつけでしょうか。
山野を跋渉していると、ときおり、おや、この場所は何かちょっと違う感じがする、と思うことがあります。
わたしの経験では、あるとき山岳地帯を車で走っていて、小用をたそうと、車を停めた道端の一角が何となく妙な感じがする。それは、普通に言われる「霊気」のようなものかも知れませんが、それを感じて、そばの藪の中に入ってみると、ここは捕らえた武士を処刑したところだ、と書かれた古びた立て札が建ててありました。
また、昔、奈良のどこかの大きなお寺でしたが、その広い境内の隅に石で囲われた周囲とは異なった感じの一画があり、ここは座禅修行をした箇所であるという掲示がありました。そこに近寄りますと何となくびりびりとしたものを感じます。周辺と異なりそこだけが何か違う雰囲気なのです。それで、わたしもしばらく座ってみたことがありました。
また、那須の田舎の部落を散策中、小高い丘に上がると大きな樹木に囲われた小さな祠があって、その一帯に不思議な「気」を感じるのです。ここは、昔、何か事件があったのではなかろうかと、その場所を所有するお宅をわざわざ訪ねて聞いてみたことがあります。古い時代のことは分からない、というご返事で引き下がったのですが「氣」がこもっているような場所があるようです。
わたしの住む宇都宮市の郊外に、ダムの周辺を整地してキャンプ場を設けたり遊歩道を設備した公園があります。一周するのに約一時間を要して格好のウオーキング場なのですが、何となく全体的に暗い感じで、中でもダムの奥にあるキャンプ場とか、ダムの隅の一部は、変わった「氣」が漂って居るように感じていました。
あるとき、散歩の途中行き逢った中年の男性が
「自分は、オーラを感じることが出来るが、この公園のあちこちには悪霊が漂っている。あの場所など特にそうで(とダムの隅の茂みを指差し)何人も首吊り自殺があったところだ」
と、話してくれたことがありました。
わたしは、自分が霊能者だ、などとは思っても居ませんが、何だか共通するところがあるな、とそのとき感じました。

さて、話は少しそれますが、俳優、映画監督、霊界研究者、として有名な丹波哲郎は、二〇〇六年九月二十四日、肺炎のため東京都内の病院で死去。八十四歳でした。彼のことについて、わたしはテレビに出たのを見た程度であまり詳しいことは知りませんが、霊界を信じ、霊界の具体的な事象まで話していたのをみたことがあります。彼は今、あの世で何をしているのでしょう。どのようなメッセージをこの世に向けて発信しているのか知りたいものです。そのうち彼の著書など読んでみたいと思っています。

また、科学者の方で霊魂とかそれに類した不思議なものの存在について説く人がいます。この本の九頁に、『植物さんとの共同研究』を出版した理学博士三上晃氏と樹医山野忠彦氏のことを書きましたが、その他に、工学博士深野一幸と言う方は「超能力現象や霊的現象は現実に起こっているが、現代科学はその原理を説明できない。現代科学は遅れた科学である」として、ビッグバンは無かった、とか太陽は熱い星ではなく地球程度の温度の星である、などと驚くような研究成果を『来るべき宇宙文明の真相』という著書の中で述べておられます。

わたしは、これらの科学者たちの著書に行き当たるまで、科学の徒は、厳密な実験結果の上に立って推論を積み重ねて行くのだから霊界や霊魂などは否定するはずだ、とばかり思っていましたので不思議な感じがしました。
一時期、わたしのかかりつけであったドクターも、受診すると霊的な話をされるので「先生は、科学の勉強をされてこられたのにそのようなことを信じられるのですか」と尋ねましたら、診断はそっちのけで熱心にそちらの話をされていました。

因みに、キリスト教では「死後に天国にあって静かに安らう霊魂」を認めています。
百年前英国でベストセラーになったA.・ファーニスという人の『スピリットランド』という本などは死後の世界を詳細に記述しています。

仏教では、霊魂の存在は認めていません。お化けとか悪霊・守護礼・水子の霊、その他いろいろの霊は、人間の心の問題であってそのようなものを思い煩う必要は無い、というのが仏教の立場のようです。
われわれは、墓場にお化けは付き物のように思うし、死んだ人の霊を慰めるのはお寺さんでお経をあげてもらうのが当然のように思っていますから、仏教は当然、霊魂は存在する、という基盤の上に立って成り立っているものとばかり思っていましたが、仏教解説の本などに目を通してみるとそれは否定されています。
坊さんに聞いても「霊なんかありませんよ」の答えが返ってきます。

勿論、科学者にしても、宗教家にしても全部が全部そうであるというわけではなく、それぞれ、そのように考える方も居られるということでしょうが、科学者に霊魂の存在を確信する方が居られ、宗教家が否定するのはわたしにとって、それまでの常識がひっくり返って大変興味深い発見でした。

わたしはこれまでに不思議なことをいくつか経験しましたが、霊界が存在し、そこで霊たちはこの現実社会と同じように暮らしているとか、喜怒哀楽を感じると言うようなことは分かりません。正直のところそんな話は眉唾じゃないか、という思いもありますが、しかし、何も無い、一切空だ、とする否定的な仏教の考え方も疑問です。
不思議なもの「Ⅹ」が存在することを確信します。 

終焉の記 砂のつぶやき(15)

第五章 考察(1)
仏像を拝んで念じていると伝わってくるもの、樹木に手を当てて念じていると伝わってくるもの、それは、電気、磁気のように目に見えない「氣」とつながっているようにわたしには思えます。

現代科学は、月に人間を着地させ、宇宙ステーションを建設し、太陽系の探査衛星を発進させ、ミクロの世界では遺伝子の操作まで出来るようになりました。ですが、まだまだ宇宙には解明できないことは沢山あるそうです。
宇宙の果てには何があるのでしょうか。まだ良くわかってはいないようですが、一説では、宇宙の地平線は光速度に近い速度で遠ざかっているので、どんな大望遠鏡でも捕らえることができない。最も遠い準星の距離までおよそ百八十億光年といわれています。

宇宙の大きさについて光年という単位が使われます。
日常生活では、雷が光ってしばらくしてゴロゴロと雷鳴が届くので、音には速度が有るのだな、と言うことが良く分かりますが光は瞬間としか考えられません。
光の速さは一秒で地球を七回り半、三十万キロメートルです。一分はその六十倍、一時間はさらにその六十倍、一日はその二十四倍、三六五日の一光年は、何と九兆五千億キロです。
一秒間に地球を七回り半も回るので現実的には瞬間としか考えられない光が、一年間、走り続ける距離が一光年ですが、光が一年間も突っ走る距離なんて現実の生活ではちょっと考えられないような途轍もない距離です。
地球が属する銀河系の直径は約十万光年で一番遠い準星の距離は百八十億光年だなどと、数字で一口に言われても、われわれの頭脳で現実感覚としてはとても受け入れられないというか、いったいそれがどれくらいの広がりなのか考えが及びません。
天文学では光年単位で論じられるわけですが、考えてみると宇宙では面白いことがありそうです。例えば、わたしが生きた人生八十三年ですから、仮に、八十光年の先に星があって、地球から届く光を分析することが出来るものとすれば、わたしが三歳のとき悪戯をしている光が今届いています。だからそこで見続ければわたしの成長過程が見られる、なんて不思議なことが可能かも知れません。まあ、それは阿呆な空想ですが・・。
八十光年の距離など百八十億光年という宇宙の広がりからみれば、針の先の点ぐらいの距離でしょう。

さて、その具体的には想像もできないような広がりの中には何があるのでしょうか。

まず初めに、この宇宙はビッグバンで誕生したという宇宙の起源に関する理論があります。ハッブルの宇宙膨張説を根拠にジョージ・ガモフと言う人が提唱した理論です。
宇宙の果ては光の速さで広がり続けているそうです。だから、逆に遡ってみますと一点に収縮するはずです。百八十億年の昔のある瞬間に、物質とエネルギーの密度が無限大で、大きさがゼロの点(そんなものが実在したと考えられるのでしょうか)それが爆発を起こして始まったのが宇宙だということのようです。
時間はビッグバンから始まったのでしょうか。ビッグバン以前にも時の流れが存在していたとすれば、では、ビッグバンの以前には何があったのでしょうか。

次に、強烈な引力のために光でさえも吸い込まれてしまい、脱出する事が出来ない「ブラックホールと言うものが宇宙にはあるそうです。
アインシュタインの一般性相対理論は、普通にはなかなか理解できない難しい理論です。
「宇宙の超新星爆発で、後に残された部分の質量が太陽質量の一.四倍よりも大きい時は、収縮して密度が無限大になるような崩壊が起こり、一点にまで崩壊する。それは、大きさが無くなるということで、これが所謂ブラックホールだ」と書いてありますが、それは、どういうことを意味するのか素人には良く分かりません。
ブラックホールに吸い込まれてしまったものは一体それから先どこに行くのでしようか。
それは、いまだに解明されては居ないそうです。われわれの住む時空とは異なる別次元の時空が存在してそこにトンネルを突き抜けて行くのかもしれません。
最近(一九八七年)観測されたわれわれの銀河系隣の大マゼラン銀河の超新星爆発でその中心にブラックホールらしきものがあると考えられているそうです。

アインシュタインの一般性相対理論は常人には理解できない難しい概念ですが、物理的には考えられない密度無限大の特異点と言うものを内包していたり、因果律の原理、原則に反するという矛盾を持っていて、結局、今の段階では宇宙には判らないことが充満しているという事が判った、ということのようです。
ドイツ人科学ジャーナリスト「ウーパ・パーパート」氏は「自然界についての人類の知識の現段階においては、何かわれわれが完全に理解していない現象が存在している」と言っています。

数学で言う虚数、Ⅹ=±√−1を昔の学者が発見した時、これは、悪魔の数だ、と言って困惑を越え嫌悪を感じた、と書いたものを読んだことがあります。
また、ƒ(x)=1/XはXを0とするとき∞(無限大)となって存在しない事になる。
つまり、虚数は、悪魔の数だ、存在しないことになる特異点(∞)は、有り得ない数だと昔の学者が嘆いても「数学」と言う精緻な理論を突き詰めて行くと、どうしても実数とは異なる別次元の存在を認めざるを得ないのではないでしょうか。
数学者のご意見を伺ったわけではないので専門家はなんと言われるかわかりませんがわたしには、そのように思われるのです。

その数学の理論を押し詰めて行くとたどり着く「虚」や「無限」の世界、それこそ、一般的に「あの世」「霊界」「冥界」と云われるものではないでしょうか。
「あの世」「霊界」「冥界」などという言葉は、オカルト的なものに繋がるようで現代の一般的な頭脳は口にするのを避けたがるようですが、これまでにわたしが度々述べました何か判らないもの、「Ⅹ」と言うような表現をすると使い易いでしょう。

今のところ、人智の及ばない広大な宇宙空間、そこにはXを包含する異なる次元の世界が存在する、と数々の経験からわたしは思いたいのです。

終焉の記 砂のつぶやき(14)

第四章 不思議な出来事(6)
その4、その他(2)
3、他人の経験
これまで、わたしの直接経験したことを述べてきました。
いろいろと書かれたものを読んだり話を聞いたりすると世間には不思議な話は無数にあるようです。
よく知られた話に、鹿児島知覧基地から出撃する特攻隊員が、特攻おばさんとして有名な鳥浜トメさんに「おばさん、僕、蛍になって帰ってくるよ」と言って出撃、本当にその夜、庭に蛍が飛んだそうです。
この鳥浜トメさんは既に亡くなられましたが、わたしと少飛同期生(九期)で特攻作戦が開始される前に知覧飛行学校に操縦教育の助教として在籍して居たのが数名居て、そのころから鳥浜トメさんにはお世話になっていたそうです。
戦後、知覧で同期生の慰霊祭を開催したときトメさんとお会いして昔のお話を聞いたことがあります。トメさんは、そのとき、わたしの顔に誰かの面影を思い出したのか、じっとわたしを見つめて「あんたは、○○さんじゃなかと?」と言われました。わたしは知覧基地にはフイリッピンに移駐のとき、一度着陸したことがあるだけで特攻出撃のころの知覧は知りません。「いいえ」とわたしは首を振ったのでトメさんは別の話に移りました。

また、栃木県塩原市出身の少飛十四期生星忠治氏は、第五十三振武隊員として昭和二十年五月十八日、知覧基地から出撃、戦死されましたが、出撃前に一泊の休暇をもらって帰宅したとき、特攻隊員に選ばれたことを告げたそうです。それから数日後の夜半、塩原のお宅が風も無いのに、がたがたと何度も障子・襖がゆれ、家族全員が目を覚まし不思議に思ったとき、父親の墨作さんが「戦死かな」とつぶやいたそうです。その後の調べでそれが丁度出撃の夜であったそうです。

加藤剛という有名な俳優がいます。彼は、エッセイストとしても有名ですが、その作品の中に「幻の鳥を想う」というのがあります。剛のお姉さんのご主人、軍医だったそうですが、この方はテニヤン島で戦死されました。そのころ、静岡のお宅の屋根に図鑑にも載ってないような大きな鳥が飛んできて止まり、しばらくして海に飛び去ったことがあったそうです。 加藤剛は、まだ少年の頃のことです。加藤は梯子をかけてそろそろと屋根に上がりその鳥を見たそうです。眼光すさまじく、脚は苔むしている不思議な鳥でした。鳥はアッという間に海の方に向きを変えて急カーブを描いて姿を消し、それを見た家族一同、不安な思いに駆られたそうです。それから、間もなく戦死の公報が届き、さかのぼってみると、その鳥が来た日であった、という記事があります。

歌舞伎の先代中村勘三郎は、何かに腹を立て「死んだら蝿にでもなって、みんなを見張っててやる」と言ったことがあるという。亡くなった通夜の晩、「親父は賑やかなことが大好きだったから」と通夜の客が帰ったあと麻雀をはじめたら、飾られた遺影が倒れ、四月だというのに蝿が一匹飛んできた。ふだん蝿などいない家なのに・・。
以来、大事な舞台や催しのたびに決まって蝿が姿を現す。出番を待つ勘九郎の額にとまってどいてくれない。「一緒に出ますか」と訊いたら、やっと飛び去ったということもあった。
中村屋では、蝿は先代の化身として扱われている、と『役者は勘九郎 中村屋三代』という本に書かれてあります。

以上の他にこれに類した話、つまり霊感とか、暗示とか、予言とか、要するに科学では解決することの出来ない不思議なもの「Ⅹ」についての話は数限りなくあります。
わたしの不思議な「Ⅹ」を経験した話もその中の一つですが、似たようなことを経験される方が大勢いらっしゃるということは、それらが根拠のない偶然の現象に過ぎない、あるいは弱い人間の妄想に過ぎない、と断定できるのでしょうか。
わたしは、そのことに就いて自分なりにいろいろと考えてみました。

終焉の記 砂のつぶやき(13)

第四章 不思議な出来事(5) 
その4、その他
1、沖縄の蝶
大東亜戦争で唯一国内戦となり、数多の無辜の住民を巻き添えにした沖縄の惨状は、後世になって記録をひもとくたびに胸が痛みます。
家内(澄子)の三兄は、この地で散華されましたので、平成八年十二月十九日、北海道札幌にいる澄子の姉と三人で慰霊に訪れました。
戦跡を訪ねる旅行会社主催二泊三日の短いツアーでした。到着の翌日は、ツアーの一行と別行動でわたしら三人は、亡兄の消息が判ればいいが、と沖縄県平和促進課を訪れました。
(写真は、亡弟の碑に参る姉)
亡兄が沖縄移駐の前に満州から送ってきた一枚の葉書を提示したところ、南部戦跡にある「平和祈念公園」の「平和の礎(いしじ)」に刻まれてある「岩崎富士夫」の名前は、苦も無く判明しました。
沖縄県は数万の戦死者の調査が行き届いていて戦死二十数万人の氏名を刻んだ子供の背の高さほどの「平和の礎」という刻銘碑が公園の中に見渡す限りきっちりと並んでいます。
早速、平和祈念公園に行き「平和の礎(いしじ)」の中から、北海道出身の亡兄の名はすぐに見つかり、お線香をたむけお参りをすることができました。
その翌日、ツアーの一行と共に摩文仁の丘を訪れました。摩文仁の丘は、最終的に追い詰められた日本軍が二十年六月二十三日早朝四時三十分、第三十二軍、司令官牛島満中将(五十七歳鹿児島出身)、軍参謀長、長勇中将(四十九歳福岡県出身)。作戦主任参謀 八原博道の三氏が、副官のハーモニカで(海ゆかば)を吹く中、日本刀で自決し、組織的な戦闘が終わったところです。
摩文仁の丘は、坂の入り口から丘の上に行く道路の両側に、隙間なく各県の慰霊碑が建立され連なっています。
ガイドさんが、「坂道ですし、時間もあまり無いので足に自信のある方がどうぞ」ということで、澄子や姉は居残る事にしてわたしは、一行に加わって丘の上に向けて歩きだしました。
栃木県の慰霊碑は入り口にあったし、途中には、わたしの郷里佐賀県のも、また北海道のもあります。坂を上って行きますと行き止まりには、石の像がありますが、これは見様によっては司令官と参謀長の自刃の姿に見える、というガイドさんの説明がありました。
(写真は、自刃の形に見える石像)
そこから見下ろす南支那海は、きらきらと浪が太陽を反射し、船の姿も無く茫洋と広がっています。激戦の当時は、この海を埋めた敵艦から絶え間なく砲弾が発射され、空はグラマン戦闘機が飛び交い銃弾の雨を降らせたのでしょう。
この像のあるところから海に向って断崖を十数メートルほど下りた所に洞窟があって、その中で軍司令官以下、自決されたそうです。
洞窟の入り口は、板や木で仕切られて中には入れません。わたしは、じーっと洞窟の奥を見つめたり、明るく広がる海を見ながら往時の状況を偲んだりしていたのですが、ふと気が付くと周辺に人の姿が無い。おや、と思って急な坂を像のところに上がって行き、来た道を見通したが人っ子一人姿が無いのです。わたしの感じとしては壕の入り口から中を覗いていたのはそんなに長い時間ではなかったのです。
―いつの間に、皆さん帰ったのだろう。そういえば、予定の時間も余りないようなことをガイドさんが言っていたな―
とわたしは、うっかり悪い事をしてしまったような感じがして、急ぎ足で戻りかけました。
見通す緩い坂の彼方まで人の姿は全く無く、周辺は静まり返って何となく不思議なムードが漂っている感じです。
その時突然、左のデイゴの茂みの中から、三羽の蝶がひらひらともつれ合いながら現れました。
瞬間、わたしは、「あっ」と、たった今手を合わせてきたばかりの洞窟、自決された将軍たちのことと、佐賀の山奥の寺での、オバーチャンの化身と思う蝶が現れたことが同時に脳裏に浮かび上がりました。
三羽の蝶は、わたしが歩くすぐ左横の高い所を、わたしが進む方向にひらひらと固まりのようにもつれ合いながら飛んでいましたが、間もなく茂みの中に消えました。
十二月末のころです。沖縄はこの時期、蝶が飛ぶのは珍しい事ではないのかもしれませんが、オバーチャンの蝶も同じ初冬の季節でした。
各県の慰霊塔が立ち並ぶ人っ子一人の姿も無い下り坂を、わたしは戦死者と蝶のことを考えながら皆の待つ場所へと急いだのでした。


2、落雷

ある時期、ふとした縁で宇都宮市御幸が原町の公民館で月一回開催されていた読書会に参加していました。会長さんは、阿久津さんと言う方でした。
阿久津さんは、わたしより四歳ほど年上です。色々な病気をされ、胃がんで手術もされているとか、鶴のような痩身で「わたしはいつ死んでも不思議じゃない体です」と言われていました。農業の専門家で若いころは、インドネシヤ、サイパンなどの南の島で指導にあたられていたとか。わたしが一時期やっていた洋菓子の店の名前がインドネシヤの「チレボン」と言う都市の名を使っていたので、「一度、一緒にインドネシヤに行きましょう」とか、わたしとは昔の話題が多く、親しくして頂いていました。
氏は、宇都宮市東北部の白沢町あたりの旧家の出で、現在の御幸が原町には終戦直後居を構えてこの町の草分けだったそうです。色んな事について該博な知識の持ち主で教えていただく事も沢山ありました。
平成十一年六月から二ヶ月ほど、わたしは、北海道を気侭に放浪していたのですが、七月の末、同じ御幸が原町に居住している家内の姪から阿久津氏急逝の携帯電話連絡が入りました。その朝、普通に畑仕事に出て倒れられそのままだったとのことでした。
葬儀には出席不可能で、やむなく弔電を発信しただけで旅を続け、半月後、帰宅してお参りに行きました。その日は八月の暑い日でしたが、家を出て車を走らせているうちに突然夕立模様の天候となり、阿久津氏の居宅に車を入れるとき沛然とした豪雨が襲ってきたのです。
急いで、阿久津さん宅の駐車場に車を入れ、襲ってきた雨の中、ドアを開けた瞬間、キラッと光ったと思ったら「バリバリ、ダーン」と天地に轟く雷鳴です。
すぐ傍の電柱か、避雷針か、分からなかったけど落雷したのです。しかも、たった一発だけで後は、滝のような雨でした。
わたしは、そばの家内と顔を見合わせました。
阿久津さんのお宅の宗教は神式でした。神式では、どのようにお参りするのか戸惑いがありましたが、弔意を示すのだからお経を上げても良いだろう、わたしは浄土真宗の寺の出だから、と短いお経を上げた後、奥様から、亡くなられたご様子など伺いました。
お宅の門口で車から降りたときのたった一発だけの落雷、あれは、偶然でしょうか、こじつけかも知れないが阿久津さんからのサインではなかったのか、と考えるのです。

終焉の記 砂のつぶやき(12)

第四章 不思議な出来事(4)
その3、気象急変
1、三ヶ根山慰霊碑建立
わたしは、昭和十七年六月、所沢陸軍航空整備学校で少飛九期の課程を終えて、熊本県菊池飛行場にあった第百三教育飛行聯隊に赴任しました。
この部隊は、十八年九月、フィリッピンに移駐、第三中隊所属のわたしたちは、翌十九年三月、新設教育飛行隊要員としてフィリッピンから菊池に帰還したのですが、一、二中隊は第三教育飛行隊に編成替してフィリッピンからマレーに移駐、二十年の終戦を迎えました。
教育飛行隊は、操縦者養成の部隊で、いわゆる飛行戦隊では無いのですが、この部隊は、大きな損害を被った部隊でした。
教育訓練中の事故や、昭和十九年 九月、比島サンマルセリーノ基地上空で米機と交戦二機撃墜され戦死、また昭和十九年十月、マレーに向けて海上輸送中の地上部隊、近藤大尉以下二百九十五名が乗船した輸送船白根山丸がフィリッピンパラワン島沖で敵潜水艦により撃沈され生存者は僅かに一名という大きな損害を被ったのです。
また、昭和二十年七月、タイ・プーケット島沖英機動部隊に特攻出撃、三機命中して英大型艦轟沈、などの戦果も上げています。

戦後、生存者が寄り集まって、平成元年、愛知県三ヶ根山に菊水会慰霊碑を建立しました。

この日、七月八日、慰霊碑の前で、多くの生存者が集まって、正に慰霊祭を開始しようとしたそのとき、突然、突風が襲ってきました。
それまで、格別、異常な天候状態でも無かったのに、天幕二張りも吹き飛ばしそうな風で一同は風の収まるのを待ちました。その間、これは、英霊の何かのサインではないか、などという声も突風の静まるのを待つ参加者の中から聞こえましたが、それは,別に同調する声も起こらず、そのとき、わたしも、わりと軽い気持ちでその声を聞き流しておりました。
そして、暫らく待つうちに嵐は収まり、無事慰霊祭を終了することが出来ました。

2、万世基地
戦時中、陸軍の特攻基地として鹿児島県の知覧飛行場は有名ですが、あまり人に知られてない特攻基地に「万世」と言う特攻基地が知覧とは反対側の薩摩半島の西海岸吹上浜の南端にありました。
わたしの所属した第百三教育飛行聯隊は、九九式襲撃機という飛行機の操縦教育をしていたのですが、九九式襲撃機の特攻は、主としてこの万世基地から出撃しました。
因みに、万世基地より出撃の機種では、九九式襲撃機九十一機、二式高練二十一機、
一式戦闘機五、九七式戦闘機四機となっています。
戦後、第百三教育飛行聯隊生存者の会「菊水会」では毎年各地持ち回りで慰霊祭を行い、勿論、知覧でも執行されましたが、その後、この万世基地でも行いました。
万世基地には、知覧ほど人に知られていないのでお参りに訪れる人も多くはないようですが、神社、資料館などが立派に整備されています。
平成七年 七月十七日、菊水会の万世基地慰霊祭が催されました。
慰霊祭当日、直前まで良く晴れて浜には南国の明るい日差しが射していたのですが、直前になって三ヶ根の慰霊祭のときと同じようにサーッと空が曇り、雨が降り出し、参列者は天幕の中で、暫らく雨宿りをしていました。しばらくして雨も止み無事慰霊祭は執り行うことが出来ました。
慰霊祭では、何だか天候が急変するな、との思いがそのときわたしの胸に湧いていました。

3、栃木少飛会解散慰霊祭
陸軍少年飛行兵の生存者の会は、全国組織があり、栃木県にも栃木少飛会があって例年、慰霊祭が執行されていました。
平成十六年、会員も十一期生ぐらいまでは傘寿を迎え、寄る年波で体調不良の者も多くなり、協議の結果、平成十六年四月に最終慰霊祭を執行して解散することになりました。
栃木少飛会の慰霊碑は、宇都宮市北山霊園のなかの一番高い岡の上にあります。
四月十八日十時、式典開始。例年、自衛隊宇都宮駐屯地の司令も参列し、自衛隊ヘリの慰霊飛行も行われます。
慰霊碑の前には、供物や花が供えられ、我々が聯隊旗と呼ぶ少飛会の旗も供花の横に支持枠に挿して立てられました。周辺の桜は、満開を過ぎてハラハラと散っています。
神主の祝詞奏上などが終わり、十六期生高村氏の献詠が始まり、一曲が終わるころ、東の空に自衛隊ヘリ三機編隊が姿を現しました。轟々の爆音が近づき、全員、空を振り仰ぎ、帽子や手にしたハンカチを振ります。
このとき突然、慰霊碑の周辺につむじ風が起こったのです。献花台が揺れ、聯隊旗が吹き倒されました。吟詠の一曲がちょうど終わった高村氏が倒れた聯隊旗を慌てて起こしました。
ヘリは一度上空を通過し、西に飛んで再度反転飛来します。一同は、それまで上空を見上げたままです。
旋風に旗が吹き倒され、高村氏がそれを起こしたことなど、誰も気付かなかったようだし、気付いても別に何とも思わなかったようです。
わたしは、三ヶ根山慰霊碑のことや、万世基地の慰霊祭のことなどが瞬間、脳裏に閃きました。慰霊祭に限って突然、異常な気象状態となる。これは、亡き戦友からの合図ではないのか。
わたしは一人、空を仰ぐ視線を慰霊碑に移し、ジ―ッと碑面を見つめていました。別に何ごともありませんでした。
ヘリの編隊は、爆音をとどろかせて二回上空を飛行して西に飛び去り、 二曲目の吟詠が始まり、その後、同期の桜など高唱して慰霊祭は終わり、市内の宴会場に移動しました。

毎年開催される慰霊祭で必ず気象が急変するわけではありませんが、慰霊碑建立とか戦友会解散というような、けじめの行事のときに起きる以上のような現象は果たして偶然の自然現象なのでしょうか、一度だけでなくたびたび起きるということは偶然と片付けられない何かがあるように思われます。

終焉の記 砂のつぶやき(11)

第四章 不思議な出来事(3)
その2、「天泣」
サイパン島は、大東亜戦争開戦後三年を経過した昭和十九年七月、彼我圧倒的な物量の差によって戦闘に惨敗し、ついに玉砕した島です。
昭和十九年六月十五日、当時、絶対国防圈(けん)と呼称され重要地域の拠点の一つであったサイパン島に米大機動部隊が襲ってきました。
サイパンには、陸軍の第三十一軍第四十三師団約二万九千と海軍の第五根拠地隊、及び横須賀編成の第一特別陸戦隊の一万五千の合計五万四千の兵が守備していました。
守備隊は「我身ヲモッテ太平洋ノ防波堤タラン」のスローガンのもと勇戦敢闘して敵に多大の損害を与えたが、一発の砲弾を発射すると、十倍二十倍のお返しが来るという圧倒的な物量の差は、如何ともしがたかったのです。
炸裂(さくれつ)する艦砲の大口経砲弾の破片に肉体を引き裂かれる。雨あられと空気を切り裂いて飛んでくる小銃機関銃の弾が体を貫通する。爆雷をいだいて敵戦車に突進しても、体当たりする前に戦車砲や搭載している機銃によって倒され、キャタピラに押しつぶされる。壕内(ごうない)にひそんでいると、爆薬を放り込まれ、火炎放射器で焼き殺される。それでも兵士たちは肉弾攻撃を続けたのです。
精神力を頼りとする日本軍は、圧倒的な物量作戦の米軍に太刀打ちできず、次第に島の北部に押されて、ついに七月六日、南雲(なぐも)中部太平洋方面艦隊司令長官、斉藤第四十三師団長など四名の将軍が、地獄谷の軍司令部洞窟(どうくつ)の中で自決。
軍首脳が自決の翌日、総攻撃が敢行されたのですが総攻撃といっても満足な武器もなく、手榴弾(しゅりゅうだん)だけを腰にぶら提げたり、木にごぼう剣をくくりつけて槍(やり)のようにしたものを持っただけの兵士が、ただ死ぬために「ワァワァ」と叫びながら敵陣に向かったそうです。
米兵は襲ってくる原始人のような日本兵を機関銃、自動小銃を乱射してなぎ倒しさえすればよかったのです。
この夜の突撃で組織的な戦闘は終わりを告げ、以後、島の北端に追いつめられた敗残兵や在留邦人たちの間には、悲惨な地獄図会が展開されました。
米軍に白旗を掲げて捕虜になれば、男はもちろん殺され、女は辱められたあげく殺されると思い込まされているから、自決する以外に方法はないのです。
親は鎌で子供や妻の首を切る。すさまじい悲鳴とともに血がほとばしる。派手な着物を着た慰安婦らしい女たちが、手榴弾を発火させての集団自決らしく、胸部から腹部がえぐられた無残な姿で横たわっている。
現地徴収されたうら若い看護婦の一団が、婦長の号令で毒薬を腕に注射してこと切れてゆく。
島の北部にマッピ山という山があり、その北側は高さ約二百メートルの切り立った断崖絶壁である。追い詰められた人々はこの絶壁を飛び下りる。 後に、この崖はスーサイドクリフ(自殺のがけ)と名付けられました。
さらにその先はマッピ岬で、ここからは青いうねりのフイリッピン海。故国日本は三千キロの彼方、援軍の来るあてはなく絶望以外の何物もないのです。
このオーバーハングの崖から無数の人が飛び込みました。その数は千人とも千五百人とも言われています。
包囲した米軍は、水も食糧もある、安心して出てきなさい、とスピーカーで投降を呼びかけるが、日本人は投降すれば辱められるとしか思っていないので、目の前で死んでゆくのです。
不思議な生き物を見るように米軍兵士は眺めながら、どうしたらよいのか困っていたらしいが、ついにはその中に分け入って無理に引きたて、食糧や水を与えたが、初めは毒が入っているのではないか、と恐れて口にせずに捨てた者もいたということです。
このような正に地獄状態が現出されて、サイパン島は玉砕したのです。
サイパン島のすぐ南にテニヤンという島があるが、この島も八月三日に玉砕しました。日本軍は、サイパンとテニヤンを失ったことにより、B29による直接日本本土の攻撃を許すことになり、そしてその後、主要な都市のほとんどは焼き払われました。
広島、長崎への原爆投下機はこのテニヤンの島から発進したのです。

わたしの長兄武(たけし)は海軍兵曹長、横須賀で編成された陸戦隊の小隊長としてこの戦闘に参加し戦死しました。

生き残っている私たちは、いつかサイパンを訪れたい、そして兄を含めた玉砕の英霊を弔いたいと念願していたのですが、ようやく願いがかない、遠くに住む姉妹と連絡をとりあって、平成十年四月下旬にサイパン島を訪れました。
戦後半世紀以上が過ぎて、いまだに生きている姉妹とわたしの三人は既に古稀の坂をこえ、姉は喜寿を迎え、杖を頼りのよろよろ歩きです。
関西空港を離陸したのは夜も九時になってからで、時差一時間の現地到着は夜半の二時、その朝はゆっくりと過ごし、午後になって、慰霊の行事を行うために北端のマッピ岬に向かいました。
事前に戦記を読んで、すさまじい玉砕戦闘の概要を知ってはいましたが、いざタクシーを下りて、目の前にそそりたつマッピ山の二百メートルの垂直の断崖(だんがい)を仰いだとき、
―おお、ここを飛び下りたのか―
胸を締めつけられるような思いが込み上げました。
その付近に、日本軍のものであろう戦車や、高射砲の赤さびた残骸(ざんがい)が置いてあります。
断崖の下に「中部太平洋戦没者の碑」があります。碑は、セメント製の大きな遺骨箱をかたどったものが壇上に置かれて、その背後は屏風(びょうぶ)を広げたような形にコンクリートの壁で囲ってあります。
その碑に向かってささやかな慰霊祭を行うことにし、付近の草むらに咲くブーゲンビリヤや、ハイビスカスの花を、同行の姉妹たちに摘んできてもらい、持参の位牌(いはい)を壇に供え、お線香に火をつけて読経をはじめました。
私は、長文の『正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)』をあげたあと『般若心経(はんにゃしんぎょう)』をあげ、用意した弔辞を読み始めました。
それまで断雲の漂う空は明るく晴れていたのに、そのとき突然、頭上の一片の雲から雨が落ちはじめました。
雨は位牌をぬらし、弔辞の筆字が雨水ににじみます。
―ああ、これは兄を含めた英霊の涙に違いない―
私は、思わず胸がつかえて声が出ません。頭の中を、無残にも命を引き裂かれた兵士、断崖から身をなげた婦女子、手榴弾を抱いて我が身を砕いた人々のことが思い浮かびます。
嗚咽(おえつ)が出て、あふれる涙が雨とともにほほを流れます。
弔辞は、戦前の兄の思い出や、戦闘状況なども含めて長文のものになっていました。
気持ちを取り直して、その弔辞をようやく読み終えたとき、不思議にも雨は止み、またもとの明るい南国の太陽が照りつけはじめたのです。
「不思議ね!」
背後にならんでいる姉妹や家内も顔を見合わせています。

 ♪うさぎ追いしかの山 小ぶなつりしかの川 
         夢は今もめぐりて 忘れがたきふるさと

「ふるさと」を合唱して慰霊祭を終え、バンザイクリフに向かいます。十分も歩かないでゆける距離にあるのですが、その間の平地には観音様や慰霊の塔、その他のモニューメントが各所に建てられてあります。
飛び込んだ断崖のふちはガードレールで囲ってあります。そのガードレールに両手を置いて断崖を見下ろすと、濃紺のフイリッピン海から押し寄せる大きな波のうねりが、下の岩礁に白く砕け散っています。
ここから先は逃げ場がない。追い詰められた人々は、遠い、遠い日本の故郷を偲びながら身を投じたのでしょう。
み霊よ、私たちと一緒に日本に帰りましょう。山美しく、水清いわれらの故郷へ!
私は、遠い北の水平線を見つめながら、いつまでも去りがたい思いに浸っていました。

後になってわたしは、「天泣」という言葉があることを知りました。辞書には、単に「晴れた日に降る雨」とだけの解釈ですが、在天の英霊の意思の現れとしての言葉として相応しいと思われます。

追記
平成十七年六月二十八日、天皇・皇后両陛下が戦没者慰霊のためサイパンを訪れられました。天皇・皇后両陛下が海外の慰霊に赴かれるのは初めてのことです。
わたしは「中部太平洋戦没者の碑」に参詣され、次に北部のバンザイクリフでお参りをされるテレビの報道画面に見入り、ああ思い出のところだ、と両手を合わせていました。両陛下がバンザイクリフから引き返されるとき、突然晴れた空から雨が降ってきた、と傘をさされた場面が出ました。わたしは、
―あっ、わたし等が経験したと同じ天泣だ―
と強いショックを受けました。
天皇・皇后両陛下と、わたしごとき者との経験を同一に述べることはあまりにも恐れ多いことでしょうが、わたしには、あの周辺で無残な死を遂げられた多くの御霊が、無念のサインを送られたような思いが胸の中に瞬間湧いたのでした。
NHKのニュース画面は、その後、幾度も繰り返し両陛下を写していましたが、突然の雨に傘を差された場面は、それっきりで二度とは現れませんでした。誰しも、両陛下が雨に遇われたことが「天泣」だ、などと思う人は居なかったのでしょう。