終焉の記 砂のつぶやき(11)

第四章 不思議な出来事(3)
その2、「天泣」
サイパン島は、大東亜戦争開戦後三年を経過した昭和十九年七月、彼我圧倒的な物量の差によって戦闘に惨敗し、ついに玉砕した島です。
昭和十九年六月十五日、当時、絶対国防圈(けん)と呼称され重要地域の拠点の一つであったサイパン島に米大機動部隊が襲ってきました。
サイパンには、陸軍の第三十一軍第四十三師団約二万九千と海軍の第五根拠地隊、及び横須賀編成の第一特別陸戦隊の一万五千の合計五万四千の兵が守備していました。
守備隊は「我身ヲモッテ太平洋ノ防波堤タラン」のスローガンのもと勇戦敢闘して敵に多大の損害を与えたが、一発の砲弾を発射すると、十倍二十倍のお返しが来るという圧倒的な物量の差は、如何ともしがたかったのです。
炸裂(さくれつ)する艦砲の大口経砲弾の破片に肉体を引き裂かれる。雨あられと空気を切り裂いて飛んでくる小銃機関銃の弾が体を貫通する。爆雷をいだいて敵戦車に突進しても、体当たりする前に戦車砲や搭載している機銃によって倒され、キャタピラに押しつぶされる。壕内(ごうない)にひそんでいると、爆薬を放り込まれ、火炎放射器で焼き殺される。それでも兵士たちは肉弾攻撃を続けたのです。
精神力を頼りとする日本軍は、圧倒的な物量作戦の米軍に太刀打ちできず、次第に島の北部に押されて、ついに七月六日、南雲(なぐも)中部太平洋方面艦隊司令長官、斉藤第四十三師団長など四名の将軍が、地獄谷の軍司令部洞窟(どうくつ)の中で自決。
軍首脳が自決の翌日、総攻撃が敢行されたのですが総攻撃といっても満足な武器もなく、手榴弾(しゅりゅうだん)だけを腰にぶら提げたり、木にごぼう剣をくくりつけて槍(やり)のようにしたものを持っただけの兵士が、ただ死ぬために「ワァワァ」と叫びながら敵陣に向かったそうです。
米兵は襲ってくる原始人のような日本兵を機関銃、自動小銃を乱射してなぎ倒しさえすればよかったのです。
この夜の突撃で組織的な戦闘は終わりを告げ、以後、島の北端に追いつめられた敗残兵や在留邦人たちの間には、悲惨な地獄図会が展開されました。
米軍に白旗を掲げて捕虜になれば、男はもちろん殺され、女は辱められたあげく殺されると思い込まされているから、自決する以外に方法はないのです。
親は鎌で子供や妻の首を切る。すさまじい悲鳴とともに血がほとばしる。派手な着物を着た慰安婦らしい女たちが、手榴弾を発火させての集団自決らしく、胸部から腹部がえぐられた無残な姿で横たわっている。
現地徴収されたうら若い看護婦の一団が、婦長の号令で毒薬を腕に注射してこと切れてゆく。
島の北部にマッピ山という山があり、その北側は高さ約二百メートルの切り立った断崖絶壁である。追い詰められた人々はこの絶壁を飛び下りる。 後に、この崖はスーサイドクリフ(自殺のがけ)と名付けられました。
さらにその先はマッピ岬で、ここからは青いうねりのフイリッピン海。故国日本は三千キロの彼方、援軍の来るあてはなく絶望以外の何物もないのです。
このオーバーハングの崖から無数の人が飛び込みました。その数は千人とも千五百人とも言われています。
包囲した米軍は、水も食糧もある、安心して出てきなさい、とスピーカーで投降を呼びかけるが、日本人は投降すれば辱められるとしか思っていないので、目の前で死んでゆくのです。
不思議な生き物を見るように米軍兵士は眺めながら、どうしたらよいのか困っていたらしいが、ついにはその中に分け入って無理に引きたて、食糧や水を与えたが、初めは毒が入っているのではないか、と恐れて口にせずに捨てた者もいたということです。
このような正に地獄状態が現出されて、サイパン島は玉砕したのです。
サイパン島のすぐ南にテニヤンという島があるが、この島も八月三日に玉砕しました。日本軍は、サイパンとテニヤンを失ったことにより、B29による直接日本本土の攻撃を許すことになり、そしてその後、主要な都市のほとんどは焼き払われました。
広島、長崎への原爆投下機はこのテニヤンの島から発進したのです。

わたしの長兄武(たけし)は海軍兵曹長、横須賀で編成された陸戦隊の小隊長としてこの戦闘に参加し戦死しました。

生き残っている私たちは、いつかサイパンを訪れたい、そして兄を含めた玉砕の英霊を弔いたいと念願していたのですが、ようやく願いがかない、遠くに住む姉妹と連絡をとりあって、平成十年四月下旬にサイパン島を訪れました。
戦後半世紀以上が過ぎて、いまだに生きている姉妹とわたしの三人は既に古稀の坂をこえ、姉は喜寿を迎え、杖を頼りのよろよろ歩きです。
関西空港を離陸したのは夜も九時になってからで、時差一時間の現地到着は夜半の二時、その朝はゆっくりと過ごし、午後になって、慰霊の行事を行うために北端のマッピ岬に向かいました。
事前に戦記を読んで、すさまじい玉砕戦闘の概要を知ってはいましたが、いざタクシーを下りて、目の前にそそりたつマッピ山の二百メートルの垂直の断崖(だんがい)を仰いだとき、
―おお、ここを飛び下りたのか―
胸を締めつけられるような思いが込み上げました。
その付近に、日本軍のものであろう戦車や、高射砲の赤さびた残骸(ざんがい)が置いてあります。
断崖の下に「中部太平洋戦没者の碑」があります。碑は、セメント製の大きな遺骨箱をかたどったものが壇上に置かれて、その背後は屏風(びょうぶ)を広げたような形にコンクリートの壁で囲ってあります。
その碑に向かってささやかな慰霊祭を行うことにし、付近の草むらに咲くブーゲンビリヤや、ハイビスカスの花を、同行の姉妹たちに摘んできてもらい、持参の位牌(いはい)を壇に供え、お線香に火をつけて読経をはじめました。
私は、長文の『正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)』をあげたあと『般若心経(はんにゃしんぎょう)』をあげ、用意した弔辞を読み始めました。
それまで断雲の漂う空は明るく晴れていたのに、そのとき突然、頭上の一片の雲から雨が落ちはじめました。
雨は位牌をぬらし、弔辞の筆字が雨水ににじみます。
―ああ、これは兄を含めた英霊の涙に違いない―
私は、思わず胸がつかえて声が出ません。頭の中を、無残にも命を引き裂かれた兵士、断崖から身をなげた婦女子、手榴弾を抱いて我が身を砕いた人々のことが思い浮かびます。
嗚咽(おえつ)が出て、あふれる涙が雨とともにほほを流れます。
弔辞は、戦前の兄の思い出や、戦闘状況なども含めて長文のものになっていました。
気持ちを取り直して、その弔辞をようやく読み終えたとき、不思議にも雨は止み、またもとの明るい南国の太陽が照りつけはじめたのです。
「不思議ね!」
背後にならんでいる姉妹や家内も顔を見合わせています。

 ♪うさぎ追いしかの山 小ぶなつりしかの川 
         夢は今もめぐりて 忘れがたきふるさと

「ふるさと」を合唱して慰霊祭を終え、バンザイクリフに向かいます。十分も歩かないでゆける距離にあるのですが、その間の平地には観音様や慰霊の塔、その他のモニューメントが各所に建てられてあります。
飛び込んだ断崖のふちはガードレールで囲ってあります。そのガードレールに両手を置いて断崖を見下ろすと、濃紺のフイリッピン海から押し寄せる大きな波のうねりが、下の岩礁に白く砕け散っています。
ここから先は逃げ場がない。追い詰められた人々は、遠い、遠い日本の故郷を偲びながら身を投じたのでしょう。
み霊よ、私たちと一緒に日本に帰りましょう。山美しく、水清いわれらの故郷へ!
私は、遠い北の水平線を見つめながら、いつまでも去りがたい思いに浸っていました。

後になってわたしは、「天泣」という言葉があることを知りました。辞書には、単に「晴れた日に降る雨」とだけの解釈ですが、在天の英霊の意思の現れとしての言葉として相応しいと思われます。

追記
平成十七年六月二十八日、天皇・皇后両陛下が戦没者慰霊のためサイパンを訪れられました。天皇・皇后両陛下が海外の慰霊に赴かれるのは初めてのことです。
わたしは「中部太平洋戦没者の碑」に参詣され、次に北部のバンザイクリフでお参りをされるテレビの報道画面に見入り、ああ思い出のところだ、と両手を合わせていました。両陛下がバンザイクリフから引き返されるとき、突然晴れた空から雨が降ってきた、と傘をさされた場面が出ました。わたしは、
―あっ、わたし等が経験したと同じ天泣だ―
と強いショックを受けました。
天皇・皇后両陛下と、わたしごとき者との経験を同一に述べることはあまりにも恐れ多いことでしょうが、わたしには、あの周辺で無残な死を遂げられた多くの御霊が、無念のサインを送られたような思いが胸の中に瞬間湧いたのでした。
NHKのニュース画面は、その後、幾度も繰り返し両陛下を写していましたが、突然の雨に傘を差された場面は、それっきりで二度とは現れませんでした。誰しも、両陛下が雨に遇われたことが「天泣」だ、などと思う人は居なかったのでしょう。